昨日食料の買い物に歩いて出かけた。
近道のため片側2車線道路を横断した。
横断後に8歳ぐらいの男の子が近寄った。
「横断歩道を渡らないと危ないですよ」
恐縮した私は手を上げて彼の指摘に応えた。
私は安全確認の上で横断歩道以外でも横断する。
自分の行動が正しいとは思わない。
(ただ間違っているとも思わないが…)
なので小さい子がいる時は行動を慎む。
今回は対面歩道側の小学生を見落とした…
これまで多くの徒歩旅を経験してきた。
2回の四国遍路や北海道旅は厳しい旅だった。
暑さや雨や車には十分気をつけて旅した。
特に暑さの中の長時間歩行は身体に堪える。
日陰を探しては道の左や右に変更を繰り返す。
そんな時の道の横断は横断歩道に拘らない。
また歩道が片側で時々切り替わる時もある。
その時も随時横断して反対側に渡る。
更に歩道がなく路側帯の狭い道歩きもある。
少しでも安全な歩行帯を探しては移動する。
車の多い雨の日も安全を探して道を渡る。
全ては自分の安全を優先して判断する。
また自分に楽な方法を選ぶ時もある。
(横断歩道橋を渡らずに横断する等)
時間に追われれば信号無視して横断もする。
なので決して優良な歩行者ではない。
それでも安全確認には気をつけている。
冒頭で紹介した少年はきっと正義感が強い。
私の安全を心配した事ももちろんある。
更にルール違反をヤンワリと咎めた!
「ルールを守る」という事は正義だ。
多数の人間が平和に暮らすためルールは必要。
ただルールの解釈は少し柔軟で良いと思う。
少年の行動を私は素直に称賛する。
見ず知らずの大人に自分の思いを伝える。
なかなかできる事ではないと思う。
日頃の両親の躾にも敬意を表したい。
ただ私の行動は今後も変わらないだろう。
交通ルールは皆の安全が目的のルール。
安全が優先でありルールが優先ではない。
安全が担保されればそれで良いと思う。
例えば車が全く通らない信号機の横断。
信号が赤でも横断して良いと思う。
例えば制限時速60kmの林間を通る直線道。
安全が確認できれば速度超過も良いと思う。
でもこれは判断する人の主観が大きい。
ルールは厳格に守る必要があると思う人。
ルールは守りつつ多少は柔軟も認める人。
ルールなんか守る必要がないと考える人。
話が飛ぶがとても面白い本がある。
「単純な脳、複雑な私」池谷祐二著、2013年講談社
興味深い箇所を少しだけ抜粋紹介したい。
・脳は自分の行動を正当化するため歪曲化する
・例えば男が女を吊り橋に誘って愛を告白する
女は吊り橋の恐怖でドキドキする
しかし女の脳はドキドキを愛の証と勘違い
女の脳は男が魅力的だからドキドキしたと思う
・脳のゆらぎが行動の成否を決定する
・例えばプロゴルファーでもいつも正確ではない
パットを成功する時と失敗する時がある
脳のゆらぎを調べれば成功か失敗か事前に判明
・正しさの信念は記憶から生まれる
・例えばラで始まる単語とラで終わる単語の比較
ラで始まるラーメン、ラで終わるサクラ等々
どちらが多か尋ねるとラで始まる方が多い回答多数
実際に広辞苑で調べるとラで終わる単語が多い
・自分で思いつき易い方を正しいと思い易い
・正しさは自分にとって心地よい事の表れ
・人間は記憶と作話で上手く生きる工夫をする
・自分では自由のつもりが実は脳のゆらぎが左右
ほんの一部の紹介で他にも興味深い話題が沢山ある。
自分が「正確」と思う事も実は「不正確」だと分かる。
しかしそれらは人間が生存するための必要な対応。
生きる上では無数の判断が繰り返される。
脳と身体が連携して素早い判断が必要なのだろう。
正しいとか間違いとか関係ないかもしれない。
行動の結果を受けて次の行動に繋がっていく。
その繰り返しで人間は生き延びようとしている。
私も少年期は冒頭の少年と似ていたと思う。
その後の人生経験でルール違反も覚えてしまった。
後付けの理由でルール違反の自分を納得させる。
コロナに関する人々の反応も似ていると思う。
コロナを怖れる人と怖れない人がいる。
夫々が自分に都合良く解釈し自分で納得する。
その判断には各人の人生経験が下地にある。
それを正しいとか間違いとかは決められない。
現代は情報が溢れ過ぎて処理が追いつかない。
メディアは連日の様に危険喚起情報を流す。
しかしコロナは分からない事がまだ多い。
私はコロナのルールにも正義にも疑問を感じる。
コロナのルール=マスク、手洗い、うがい、自粛
コロナの正義=皆でワクチン接種
毎日不安を煽るニュースばかりでは対立が拡大。
コロナを怖れる必要が無いという医者も一定数いる。
意見の対立があれば討論会を開く事もあって良い。
・コロナの危険性
・ワクチンの有効性
・自粛対策の有効性
等々を大いに深掘りして議論してほしい。
池谷氏の本を読むと人間の曖昧さが良く分かる。
人間は自分が間違っていると思いたくない。
だからこそ謙虚に未知の事が多いと自覚したい。
未知な事を前提に議論を深めてほしい。
ネット詐欺や登山危険情報と類似した部分もある。
どちらも危険度が高いのは経験の少ない人。
だからといってネットも登山も中止にはならない。
経験を積む事で人は危険回避手段を学んでいく。
コロナも経験と学びを経て乗り越える事を願う。
コメント
道路横断のお話。トレイルを歩いていたときのことを思い出しました。
道路を横断しようとしたら、もちろん、安全を確認してですが、ちょうどそこへパトカーが現れ、「横断歩道を渡ってください」とスピーカーからの声。もちろん、それは、まったくその通りで、50m先の横断歩道まで歩きました。が、しかし、パトカーの後ろでは、地元の人たちがふつうに横切っていたあの光景。わすれることができません。
コロナについても、「なぜ、誰もいないところでマスクをしているんだろう。もしかして、誰かに何かを言われるのがいやでしているのではないだろうか。それって、コロナ関係なくない?」などなど、疑問に思うことが多々あります。コロナについて書かれていることに、自分が考えていることと同じように考えていらっしゃる方がいるんだと、記事を読ませていただきました。ありがとうございます。
appleberryさん、コメントありがとうございます。
パトカーでは私も似た経験があります。
北海道徒歩旅で猛暑の中日陰を優先して道端を歩いていた時にパトカーから呼び掛けられました。「危険ですから歩道側を歩いてください。」
反対側に歩道がある事は承知の上で日陰のある路側帯を歩いていましたがパトカーの呼び掛けに素直に応じました。歩道を歩かなくても交通違反ではないと思います。猛暑の歩きでなければ安全を優先し勿論歩道を歩きます。
また東北山歩旅で訪れた裏磐梯(H29.7.12)ではパトカーから呼び止められました。
名目は行方不明者確認という事でしたが大きなザックを背負い薄汚れた格好で歩いている不審者と思われたのだと思います。決して強権的でなく丁重ではありましたが10分ほどの間職務質問等を受けました。丁度テロ等準備罪の法律が制定された時期でした。
コロナ禍の徒歩旅では人混み以外でもマスクして歩く人の多さを感じます。
appleberryさんと同じ気持ちを持ちます。
岩手県を訪れた際に噂話を聞きました。(誰から聞いたかは伏せます)
岩手県ではコロナが流行し出した当初は感染者ゼロが暫く続きました。
その後初めて感染者が現れた以降に自殺者や転居者、行方不明者が増えたという噂です。あくまで噂の又聞きなので真偽は分かりません。
それでもコロナの不安意識と皆で自粛しようという同調圧力から生き辛さを感じる世の中になった事は間違いないと思います。
コロナが不安な人も余り不安を感じない人も世の中に様々な人がいます。
皆が心に思う事をもう少し素直に言い合える世の中になってほしいと思います。