幻想を生む世界

1 個人の幻想
【羽生結弦】
羽生結弦が結婚して3か月で離婚したニュース。
羽生は離婚公表にあたりコメントを公表した。
「お相手は家から一歩も外に出られない状況が続いて」
「私を守るために行動し支えてくれていました」
新妻は結婚後105日間全く外出しなかったの?
私なら1週間外出しないだけでも耐えられないが…

羽生結弦は世界中から注目される超有名人。
マスコミやファン(ストーカー)を常に意識する生活。
結婚の際に新婦を守るため氏名等一切非公開にした。
しかし秘密を暴こうとするのがマスコミの性(サガ)。
秘密を通し続ける事は相当困難な事だと想像する。
「人の噂も75日」と覚悟し公表の選択はなかったか?
結果的に秘密保持苦労は報われず幻の幸せで終焉。
人は未来を予想し幻を見て現実との乖離を知る。

【山下達郎】
私は山下達郎の音楽が好きだ。
山下達郎のコンサートにも3~4回ほど出かけた。
山下達郎には頑なに守るポリシーがある。
・TVには出演せずコンサート映像も販売しない
・武道館等の大規模会場ではコンサートをしない
全ては音楽やファンを大切にした行動で感服する。
40年の長い活動期間中全くブレない事に賞賛する。
ところがジャニーズ問題への対応で失望した。
ジャニーズ騒動発生時に相棒(制作者)と決別。
その後に自身が出演するラジオで心境を語る。
(以下、山下氏の発言要旨を私の独断で箇条書き)
・性加害が行われたとすれば許しがたい事と思う
・ジャニーズ氏が性加害したかを私は知らない
・ジャニーズ氏の功績を称える気持ちは不変
・私の発言を不快に思う人には私の音楽は不要

この先は私の完全な独断の幻想。
・山下氏は落語が好きで義理人情的世界観の人
・自分が受けた恩は最後まで大切に感じる人
・他人に何と思われ様と自分のポリシーを守る
山下は今の地位がジャニー氏のお陰との思いが強い。
私は山下達郎に失望しつつ山下達郎らしさを感じた。
※参考記事

ジャニーズ事務所に関する言及をめぐって、音楽プロデューサーである松尾潔氏の契約解除騒動が話題になった。さらに、この解任に賛同していると名指しされた山下達郎氏のラジオでの発言も物議を醸している。この「山下達郎炎上」について、改めて整理してみたい。

【鈴木宗男】
鈴木宗男議員がロシアを訪問しロシアを応援した。
鈴木議員の発言の要点
・私は今までもこれからもロシアの友人だ
・ロシアの勝利を100%確信している
ロシアから帰国後の鈴木議員は批判を浴びた。
鈴木議員はしかし全く悪びれなかった。
自分は100%正しい事をしたという思いだろう。
そこには山下達郎と同じ様に一貫した信念を感じる。
※参考記事

ロシアに行って、ルデンコ外務次官と会談をした鈴木宗男・参議院議員に対して、愛国心あふれる人々の怒りが爆発している。しかし、筆者としては、鈴木氏の「個人外交」は悪くないと思っている。また、国会議員だからこそ、ロシアのような国に行くべきだとも考えている。なぜか。

個人の信念を善悪で論じる事は無意味と思う。
山下達郎も鈴木宗男も犯罪とは全くの無関係。
ただ個人の意見を率直に表明したに過ぎない。
その結果世間の批判を浴びてもそれは本人の問題。
ファンが離れても選挙で落ちても本人の責任。

一方で私を含む部外者は外野から好き勝手発言する。
当事者は夫々が様々な思いを持って行動している。
当然ながら部外者は当事者の思いをほぼ知らない。
そして勝手に好きになったり嫌いになったりする。
人は皆各々が自らの幻想に囚われ行動する生き物だ。

2 組織の幻想
最近は頻繁に組織の謝罪がニュースになる。
・ビッグモーター
・損保ジャパン
・旧統一教会
・ジャニーズ
・宝塚歌劇団
・日本大学

どの謝罪会見でも先ず謝罪から始まる。
だが会見が進むと組織防衛姿勢が如実になる。
謝罪がいつしか弁解になり更に自己防衛になる。
非が明らかな所は詫びるがそれ以外は弁解の連続。
弁解の主なパターン
・悪事を直接知る立場にはなかった
・一部不正はあったが組織的ではない
・過去の誤りは改善したので今はない
・証拠が無いため確認できない
一応は謝罪の姿勢を見せ組織維持を図ろうとする。
本来なら悪事の関係者は完全排除されるべき。
しかし完全排除したら組織には不都合なのだろう。
極力旧体制を維持して組織存続しようとする。

人はほぼ全てが先ず自分の命を大切にする。
自分の命を大切にした上で周りの事を気遣う。
(自分を犠牲に他人を救う人も少数いるが…)
組織も人間個々人と同様な考え方をすると思う。
先ず自己の組織を優先した上で他の事を考える。
謝罪会見自体も組織を維持したいが故の事。
組織維持も実は少数者の保身の場合も多い。

組織維持の意識が強いと目配りに欠ける。
組織維持が顕在化すると周囲の反感が増す。
結果的に組織維持自体が非常に危うくなる。
組織に問題が発生した時如何に冷静判断できるか。
人間も同様だが危機直面時は楽観的幻想がよぎる。
楽観的に考えた方が面倒な思考から逃れられる。
ある意味で安易な方向に流れ易い。
だが現実は楽観論が通らない場合が多い。

3 世論(報道)の幻想
私達は主要な情報は報道から入手する。
私達が日頃判断する材料は報道に負う事が多い。
最も顕著な例は3年前発生したコロナ関連報道。

コロナにどう向き合うか人々は報道に依存した。
その報道の出所は国や医薬業界関係者の情報。
そのため大多数は報道に沿って行動したと思う。
だが実は一部医療関係者は国等に異論を唱えた。
しかしその事実は報道ではほぼ無視された。
一部出版社からコロナ対策批判の本が出された。
コロナ発生から3年経過した今はどうだろう。
私は国の対策はほぼ効果がなかったと考える。
コロナ批判の本の正当性が証明されたと考える。
しかし報道は今も過去の事を振り返りはしない。

今回のジャニーズや旧統一教会も同様に感じる。
問題が大きくならない限り報道はとても消極的。
ジャニーズに関しては報道は寧ろ忖度していた。
ジャニーズに嫌われない報道に努めてさえいた。
旧統一教会にしても一部では問題視されていた。
なのに報道ではほとんど無視が続けられた。

報道機関は自らは決して誤らないと考える。
誤りが無い様に様々チェックし報道している。
だが報道機関は誤らないと思うのは昔の幻想。
現実には日常的に誤報道が発生している。
誤報道より更に深刻な犯罪さえ発生している。
報道機関で犯罪があっても職員や上司の処分のみ。
報道機関は個々の職員の集合体で様々な人がいる。
間違いや悪事は発生が益々増えても不思議でない。
私達が判断の指標にする報道は果たして大丈夫?
報道が信頼できると思っていたのは昔の幻想?

4 世論(空気)の幻想
コロナ報道でも触れたが私はコロナ対策に懐疑的。
コロナ対策は個人対策と組織対策が主体だった。
個人対策としてはマスク、手洗い、密回避等。
組織対策はワクチンと集団行動の自粛制限。
だが様々対策しても流行と収束を3年間繰返した。
そして徐々にコロナは下火になっていった。
この経過を振り返ると私はコロナが見えると思う。

【以下は私個人の幻想的の見解】
本質的にコロナは大危険でないが小危険はある。
つまり身体の免疫が弱い人が罹ると悪化し易い。
但し免疫の弱い人は重度慢性疾患者等で極少数。
大多数は通常の免疫で程度の差はあるが回復する。
最初の頃は免疫の弱い人に多くの死者が発生した。
コロナが徐々に広がるに連れ人々の免疫力も増えた。
つまり徐々に集団免疫が構築されていった。
コロナの変異で今後も多少重病や死者の増減はある。
だが今はほぼ集団免疫が出来上がったと推測する。
結果的に今後コロナは流行しても風邪と同程度。
初期の頃の様な重症者の多発は今後はないと思う。
(絶対にないとは言えない個人の幻想的私見)

個人の幻想的見解を記したが今だにマスク姿は多い。
特にスーパーでは9割以上マスクの店もある。
何故今だにマスクが多いのか考えさせられる。
例えば大相撲中継を見てもマスク姿は大減少。
その日により異なるがマスク姿1~2割の日もある。
私は人々が周囲を気にして行動していると感じる。
周りでマスク無が増えればマスクを取る人も増える。
しかし周りがマスク多数ならマスクする人が多い。
人々は理屈よりも空気(雰囲気)に敏感反応する。

さて今中国で新たな感染症が拡大しつつある。
ただコロナ騒動初期時より重症化事例は少なそう。
大騒ぎの必要はなさそうだが中国は不透明な国。
中国は世界一の人口を抱える超過密集団社会。
集団閉鎖やワクチン接種も強制的に行われる。
生物は本来は多様性により被害を抑えてきた。
しかし中国は集団行動で被害縮小を目論む。
中国社会の世論の空気に今後は注目したい。

5 政治の幻想
本来政治は国民に希望ある未来の提示が役割。
国民は未来に希望を持つ事で今の苦労を乗り越える。
本来未来は誰も分からない幻想の世界。
幻想を如何に実現しそうと思わせるのが政治の役割。
だが今の政治はその役割を全く果たしていない。

例えば少子高齢化の進行と年金の問題。
20年前から少子高齢化で年金制度維持が大問題。
だが小手先の微修正で凌ぎ大甘な見通しで誤魔化す。
根本的な制度の見直しには一向に取り組まない。

その一方で自らの保身だけは必死で取り組む。
如何に支援者を取り込み選挙で勝つか腐心する。
選挙で勝つための費用集めに奔走し裏金を貯め込む。
政治は「権力と金」が一番大切との幻想に囚われる。
今の政治に皆ウンザリしていると自覚できないのか?

6 ルールの幻想
地球に人類が増え過ぎたためルールが必要になった。
法律等のルールで行動規範を決め破ると罰せられる。
しかしルールは余り細かく決めると面倒になる。
面倒な事が増えれば人々の反感は増大する。
現実にはルールを決めても守らない事例も多い。
例えば
・自動車の制限速度(超過)
・横断歩道の信号(無視)
・飲酒の年齢制限(20未満飲酒)
これらに一度も違反していない人は何%いるか?
私の個人的感想は99%の人は違反の経験有と思う。
例えば国道の50Km/h制限ならほぼ全車が60kで走行。
ただし信号無視や飲酒では違反割合は減りそう。
それでも1~2度違反した人は半数超は有りそう。

前回の記事でも記したが人は皆が死を怖れる。
自分が死にたくなければ他人も同じだと考える。
だから人を殺す事は罪だと考える。
ところが現実には死は毎日発生する。
戦争、殺人、交通事故死、病死、自殺(自死)等

特に戦争や殺人は多くの人が嫌悪する行為。
そして嫌悪する行為には処罰感情が生まれる。
戦争犯罪や殺人に対して極端なら死刑を求める。
(チャップリン殺人狂は戦争の大量殺人を皮肉った)
だが戦争や殺人はダメで死刑で人を殺す事は良?
死刑もやはり強制的な殺人という考え方もある。
(私自身は死刑肯定派でも否定派でもない)
更に昔は「姥捨て」「間引き」、現代は「安楽死」がある。
これらも全て言葉を換えれば殺人と言える。
私は時代により止むを得ない行為に思われる。

人間社会は理想を追いつつも現実は懸け離れる。
人間も動物も植物も多様性を糧に生き延びた。
多様性のある事が生物繁栄の最大理由と思う。
それを一定のルールで制限する事自体が超難題。
人間を含む生物多様性の制限は寧ろ危険と思う。
人々は制限の理不尽を直感し行動する気がする。
ルールで人を縛ろうとする事が幻想に感じる。

7 私の幻想
私個人の幻想的な思いを話す。
私の母は現在94歳で日増しに老いる姿を見ている。
でも未だ食事も入浴も排便も一人で行える。
100m余の距離は息を切らしつつも自力で歩ける。
年2~3回は近場の温泉宿旅行に連れ出している。
出来れば100歳目標にピンピンコロリさせたい。
現在夕食の調理は99%私が担当している。
魚と肉と野菜と海藻と果物を極力毎日提供する。
食事だけでピンピンコロリできるとは思わない。
それでも認知症予防には相当効果有りと感じる。
私個人の独断妄想だが実験と思い継続している。
人間は生きる事自体が全て実験だと思っている。
何が正しいかなど誰にも分からない。
自分で様々情報を調べ自分で判断するしかない。
そして自分が良いと思う事を続けるしかない。

8 幻想の蔓延する世界
ウクライナやパレスチナの惨劇に世界中が悲嘆する。
何故世の中に争いが絶えず平和は遠いのか?
平和とは? 全ての人が健康で安全に暮らせる事?

でも人は生きるため他の生物の命を食べる。
人類は植物や動物など全ての命を奪って生きる。
仮に食べ物がなくなれば人の命は直ぐ危機に陥る。
仮に食べ物が極僅かしか無ければ奪い合いになる。
本来生きるという事は生存競争に勝つ事なのだ。
人類は他生物との生存競争に勝ち地位を築いた。
仮に人類を超える生物が現れれば人類は滅びる。
生きる事自体が競争や奪い合いの要素を包含する。

究極の生存環境の話以外にも類例は身近に多数ある。
裕福な生活が維持できる背景には多くの犠牲がある。
楽に生活できるのは陰で誰かが苦労している。
超富裕層が生まれる背後には無数の超貧困層がある。
世界中の全員が楽に暮らせる事などあり得ない。
本来生きる事はとても大変な作業のハズだった。
人は作業を分業する事で苦労を減らそうと考えた。
その結果生まれたのは苦労分担での超格差だった。
苦労知らずの人と苦労まみれの人の超巨大格差。

世界中の平和を願う事を私は疑問に思う。
きっと私の考え自体も幻想なのだろう。
そして幻想が生まれる根源にはお金が存在する。
お金の話は次回又は後日に取り上げたい。

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