5月18日(水) 10日目 27番神峯寺

天気 晴

昨夜泊まった二十三士公園は幕末の志士武市半平太の元に集い、最終的に藩の命令に従わなかったとして処刑された23人の志士達の処刑場だった所である。
公園の近くの寺には二十三士の墓があった。
いわく付きの公園ではあるが昨夜はぐっすり眠ることができた。

今日は、神峯寺に向かう途中の田んぼと土手の間で鹿を見た。
その鹿は田んぼから約1mの高さの土手に一生懸命登ろうとしているように最初は見えた。
しかし写真を撮りながらよく観察しているとどうやら鹿の首に紐がかかりその紐を外すためもがいているらしかった。
もがいているのは大人になる前の鹿で、かわいそうに思い助ける方法はないかと考えた。

田んぼの中に入るか?土手側の藪草に入り引き上げるか?縄を切るか?
待てよ、ここは他人の土地だから不法浸入になる?
だいたい、何故あんな所に紐があり、鹿が絡まってしまったのだ?
待てよ、もしかしたらこの辺りでは鹿の食害の被害の可能性もあるかな?
見渡すと、田んぼや畑の周りにはネットが張られている。
下手に手出しはできないと決めた。
ということを結構時間をかけて考えた。

しかしよりによって神の峯の寺に行く途中何の因果でこんな場面に遭遇したのだ?
鹿は誰かが助けない限り命を落とすだろうし、それが運命で止むを得ないと思う。
昔手塚治虫の「ブッダ」という漫画で動物が他の動物のため自らの命を犠牲にする話があった記憶がある。
輪廻転生の世界を表現していたように思うが、神は全ての生き物を平等に扱う一方で、人間は見にくい争いを繰り返し私利私欲に明け暮れていることを皮肉っていたような記憶がある。(違っていたらスミマセン)
現代の社会は、地域や国内、国家や人種間、世代間、人間と他の動物との間など、全て不平等で格差だらけ。
天才空海なら現代のような社会をどう思うのだろう?
あるいはブッダなら良い道を示してくれるのだろうか。
我が家(浄土真宗)の教祖・親鸞ならば、人間の業を一緒になって悩み受け止めてくれるのではないか。

今日の神峯寺は結構標高のある山の頂上にある寺で、登り甲斐があり少しバテた。
神峯寺を打った後、目的地の道の駅やすまでは、日陰が少ない直射日光のあたる長~いロードをただひたすら歩いた。
今日もお遍路さんとの出会いは数人と挨拶をした程度だった。


二十三士が眠る墓所


神峯寺に向かう道


田んぼと土手の間でもがいていた鹿


頑張って脱出しようとしていたが…


神峯寺への遍路道にあった変な石仏?


水を飲んで最後の石段を登れば本堂


神峯寺の本堂


次への移動中にあった空海が修業した岩屋洞


途中休憩所での好展望


琴ヶ浜の松原の自転車ロードが遍路道


本日の寝所は道の駅やすの砂浜

06時30分 二十三士公園を出発
09時00分 神峯寺に着
16時50分 道の駅やすに着

歩行時間 9時間20分
歩行距離 42km

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